■3/17(sat)■




なによりも「あ!」と思ったのは、オーバーチュアでの前口上が変わっていたこと。
今までは、

昨年の3月11日で止まっていたSHOCKの時間が再び動き出します。

と言っていたのが、

昨年の3月11日で止まってしまっていたEndless SHOCKの時間もこうして動き始めることができました。

と。

やっぱり、3.11の公演を終えて、光一さんの中にひとつの節目と区切りがついたのだろうな、と思いました。
あの日に受けた痛手は人によってそれぞれだけれども、心のダメージの度合いは自分自身でしか知ることができないものだと思います。世の中にはもっともっと自分と比べて悲惨な状況の人がいる。そう思えば、いたずらに声に出して嘆くことははばかられるけど、痛みはやっぱりあるしそれを乗り越えていくことは、自分自身にしかわからない葛藤があるのだと思います。
どんなに他人が「些細なことだ」と言われても、当の本人にしてみれば受け止めることさえ精一杯な打撃だってことはあるので。
たぶん、光一さんがあの日に受けたダメージは、深刻かつ大きなものだったんだろうな、と改めて思い知らされた気持ちになりました。
光ちゃんは言わなかったし、それを口に出して言わなかったのは当たり前だと思いますけどね。それでも、やっぱり「あれはキツいよなあ」ということくらいは察することはできますので。
でも、なんとなく自分の中で折り合いを完全につけることができたのかなと思いました。
なんか、安心した。

今日は安心の二階席。
solitaryとhigherのライティングがとても美しかったです。
心の声が聞こえたなら、きっとあの曲の間中、ひーとかぎゃーとかたすけてとか言い続ける私がいると思います。

この二曲は完全に群の舞いなわけですけど、最小の構成単位であるコウイチを中心にして、続々と舞い手が集ってきて集団になり、集団が一個の意志を持ったフォーメーションを取るじゃないですか。
その瞬間は、コウイチは群の中の点になる。
けど、群の中の点のひとつになりきっていても、やっぱり場の圧倒的な力とか陳腐な言い方ですみませんがオーラは、真ん中にいるコウイチという点から発せられている。
フォーメーションが変わると、群が散って力は散逸したように見えるけど、でも最後にコウイチっていう力の根源に当たる点が残る。
残った点は、群と同じくらいの光を放っていて、つまりそれがセンターに立つ人間ということなんだよなあ。

と、二階から観ていると思うのです。

あの二曲のコウイチは悪目立ちしているわけじゃないし、全員が同じパフォーマンスをしているときは完全に溶けきってるじゃないですか。
溶けきってはいるんだけど、じゃあだからと言って見失うとか埋没するとかっていうことは全くない。

群という集団の一部になっていても、その中のたったひとつの個が際だっている。
個に戻った時、群の時と同じ以上の光を持っている。

という言い方の方がぴったりくるかな。
よく、華という言葉をパフォーマーの方々に対して冠することがありますが、ひとくちに「華」といっても、それって要するに観ている目の主観であって、絶対のそれというのは存在してない、と思うこともできるはず、なんですけどねえ。
やっぱり、目を惹くのは仕方ない。
鏃型のフォーメーションが、どちらの曲でも多用されてますけど、あの場面とかは顕著ですよね。
集団を率いる先頭に立つカリスマ性。
ジャニーズはよく好んでこのフォーメーション使うけど、それはそれはかっこいい。
なんというか、ふさわしいというしかない。
全員が輝いている場面であってさえ、群を抜いて放つ光っていうのはあるもんです。
まあもちろんこれも、光一ファンの目で見ているからこそ、なのかもしれませんが、ものすごい存在感ですよねえ。決して大柄ではないのに。
今日はそんなことを観ながら思ってました。

あ、そういえば今日一幕の千穐楽の後の場面で麦とホップネタをやらなくなってました。
あれってCM期間が終わったからかしら。今麦とホップって、また仲間さんと田村さんの二人だけのに変わってますもんね。となると、もう観ることはないのか。なんか残念。
でもこういうとこ、すごいきっちりしてるなあ、と妙におかしくなってしまいました。
そういえば、やっぱりSHOCKの最中の時でしたっけ。いつぞやの年、念願のコカ・コーラのCMに出演するようになったの。唯一といっていい程「美味しそうな顔」でコーラ飲み干す光一さんをふと思い出しました。
CMはふいの遭遇がうれしいのでまたどこかとご縁があったらいいなあ。

 

Back