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◆◇◆少しは冷静な分析とかしてみよう。おう!と試みる私の「てんまち」雑記帳◆◇◆

drop16_6.gif (136 バイト) 最終回 2000/6/28 22:30〜23:30 drop16_6.gif (136 バイト)

さて一晩たってみた。
ので、少しはストーリーその他についてのあれこれなんぞ。

◆ ループ
実は、この最終回についてはいろいろいろいろ思うところがあって、手放しに誉めることは決してできないんですが、それでもなんとか及第点・・・許せる、と思ったのはタマキの死を容認できたからなんですね。
普通の感想にも書きましたが、つまるところ、達郎が最後にひとりに立ち返るというラストは最初の段階で決まっていたことなのかな、ということに思い至った時に、それまでの経過はどうあれこれは許していい終わり方なのかもしれない、と思ったわけです。
「天使が消えた街」の大テーマはなんなのかを考えた時、一番に思い浮かぶのは輝ちゃんの台詞
「いらない部品はありません、みんな大事な部品です」
という言葉なわけで。
人間は誰ひとりとしていらない人はいない。みんな大事な人なんだということを達郎が知る、ということだったのだと思います。
それは、投げやりな人生を送っていた他ならぬ達郎自身も大事な人間だということに気付くってことも含まれるわけでして。
だからこそ「達郎が」主人公でなくてはいけなかったわけですよ。輝ちゃんではなくて。
主人公の心の変化。人生に向き合う際の心のありかたの成長。
それがテーマだったのかな、と。
達郎の目の前に現れた愛する人たちが全て姿を消してしまっても、それでも達郎の中に残るものがある。
天使が消えた街には、確かに何かが残った、というあれはラストだったのかな、と。
「おれはひとりだろ」
と言いながら、それでも「いらない人間」ではないことを知ってる、というラストだったのかな、と思います。
◆ タマキの死
例えば全てを喪失した後に、それでも残る何かはきっとある。ということを描きたかった場合。
それを物語の成立という論点で考えるならば。
確かにタマキは死ななくてはいけませんでした。
タマキこそ、例え何があろうとも達郎の側を決して離れない彼をただひたすら想い続ける存在だから。
かおりという存在が現れても、結局の所完全に離れることができない、そんな存在を達郎から切り離すためには、確かにタマキは死んでしまわざるを得ない。
最初からの物語の予定調和として、これは組み込まれていた死なのだな、と思ったら、それを私は容認できたのでした。
◆ プリン親子の死
では、許せないのは何か、と言えばこの親子の死ですね。
前週の「冷静な天使様」にて私が「大嫌いだ」と言ったのはつまりはこういう幕引きのさせ方です。
この最終回まで智也親子がずっと登場し続けるのには、理由があってしかるべきなんですよ。
この親子が唯一関わる主要キャラである京子に対して何か危害を加えるために(というと言い方が悪いけど)居続けたのならわかるんですが、結局のところああいう終わり方をした。
これはキャラの落ち着け先に困った挙げ句の「死」としか説明のつけようがない。
こういうのは私は嫌いですね。大嫌いだ。
何度も言いますが、例えドラマにおいても人を殺すからには、そこに物語に対しての意味づけがなされていなければそれは、もうご都合主義と呼ばれても仕方ないことではないかと思います。
そりゃ、冷蔵庫いっぱいのプリンには笑いましたけどね。それとこれとは話が別。
こういうラストの付け方をするならいっそのこと、最初からこの親子キャラは不要ではなかったのかな、と思います。
この親子のエピソードを削ることで、描き足りない随分沢山のことがちゃんと描けたと思うのですが。
京子は最初から婚約までいった彼と破局した状態で登場させた方がすっきりしたような気がします。
◆ オヤジの死
この最終回で一際印象に残ったのが、死んだ父親の身体に対する蘇生処置を見つめる達郎の姿でした。
このオヤジがまた、わけがわからんオヤジじゃないですか。
息子の命をたてに達郎を強請り、強請った金で何をしようとしていたかと言えば「ふたりの息子と一緒に乗る漁船を買う」ことだったってのはめちゃめちゃです。
いやめちゃめちゃを通りこして脳みそになんか得体のしれない生物が住み着いてるとしか思えない行動です。
さすがに「愛情表現が苦手な不器用なお父さんだったのね」とは私は思えません。
そりゃ達郎もつぶやくっちゅーねん。
でもそんなわけのわからんオヤジでも、達郎にとってはやっぱり嫌いになんか絶対になれない人なんですよ。
私は子供の親に対する愛情は無条件だと思ってます。「私と親の関係はそうじゃないのよ」とかいう反論はこの際どっかにおいておいてください。
少なくとも達郎は、必死でオヤジを憎もう、憎もうとして、それができなかった。
最後の最期に「お前達のことを忘れたことはなかった」って、そりゃねえよ、と観ている私たちはツッコミいれることは可能ですが、言われた達郎は一気にオヤジを憎む気持ちがニュートラルになってしまってもおかしくないんじゃないかな。
人が死ぬってことは、実にあっけなくて、そして全てのマイナス感情を一瞬無に返す効力があったりします。
達郎にとって一番大切なのは輝ですが、父の命が消えたことは大変なショックなわけですよ。ずっと長いことほのかな思慕の対象だったんですから。
一人の人間から一個の死体というモノになってしまった父の身体を、達郎にとってかけがえのない人間を助けるために必死で手を加えている光景を見ながら、達郎の胸に去来した思いはいかばかりのものだったのでしょうか。
あの瞳に胸がつまります。
◆ それ、達郎?
ところでこの最終回、いくつか今までの達郎らしからぬ行動がちょっと気になりました。
その1:双牙会に追われる身と知りながら、なぜ達郎はタマキを連れて病院から逃げたのか?
その2:タマキが刺された時、なぜなにはどうあれタマキを病院に運ぶ手段をとらなかったのか?
いずれも「らしくない」です。
達郎なら、絶対双牙会の追跡をその身に引き受けてひとりで逃げるような気がするんですが。
ましてや、タマキに対しては「男として女であるタマキを引き受ける」心を決めているわけでもないのに。
それは達郎だろうか?
タマキが刺された時もそうです。達郎ならタマキが何を言おうがその場で救急車にタマキを押し込んだと思うんですが。
自分が捕まるとか、追っ手がどうとか、達郎は考えるタイプじゃないような気がすごくします。
なぜタマキを連れて達郎が逃げたのか?それが解せない。
うーん。例えば双牙会に見つかって逃げる途中でタマキが撃たれ、まだ外をうろうろしている双牙会の連中から身を隠すためにすでに虫の息のタマキを連れて・・・ってんなら理解もできるんだが。つまり、乗せたくても救急車に絶対的に乗せられない・・・呼ぶことすらできない状況ならね。
・・・てゆーかですね、どっちもそれに至るための一場面が足りないんですよ。
この一場面、あと一言が足りないって言うの、第一話からそうだったんだよなあ。エピソード、もう少し整理しておけばこんなつまらないツッコミなんてしなくて済んだのになあ。
◆ 青い夜明け
まあ、そのあたりの刺されたタマキの対処は、ともかくとして。
あのタマキの死を看取る静かな場面は美しかったです。
「タマキっ!」
と叫ぶ声に滲んだ血が、悲しい。
そして、タマキの遺体を椅子に座らせてぼんやりとしている達郎にかかってくる輝の電話。
「なんとか言えよ!」
と叫ぶ達郎が、悲しい。
◆ 別れの場面
達郎は自分に関わる全ての親しい人をなくさなくてはならなかったので、あの一年後の空港は絶対に必要な場面だったと思います。
達郎からとにかく、できる限り遠くへ離さなくてはならないんですから。
ふたりが別れる場面は心に染みました。
最後の最後にようやく
「兄貴に会えてよかった」
と本人に告げることができた達郎。号泣。
ようやく、本当にようやく輝を「兄貴」と呼べたのね。
そのことが嬉しいと同時に、とても、悲しい。
最後に、愛しい思いでの場所で、タマキの幻にさえも背を向けて去っていく達郎。
その未来に、優しい日々が待っていることを願ってやみません。
◆ じゃあな
「天使が消えた街」の第一報を聴いたのはまだ冬の日。
足かけ何ヶ月でしょう?
いろいろいろいろ、考えることの多かったドラマでした。
楽しかったなあ。
次のドラマでは一体どんな顔を見せてくれるのか、楽しみです。
お疲れさま、光ちゃん。

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